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世の中かわった。紅茶にソネット [昔のこと]

「ソネット」と言っても、ソニーがやってるインターネット接続サービス
(このブログもSo-netブログなんですが)のことではありません。
森永乳業から出てた純植物性クリーミーパウダーだそうです。

「世の中変わったねー」ってな話になったとき、
「世の中かわった。紅茶にソネット」って言ったら、
「何それ?」って言われて。
「昔そういうCMあったでしょ?」「知らない、ソネットって何?」
‥‥実は私もこのフレーズを覚えているだけで、どんな広告だったのか、
そう聞かれれば「ソネット」って商品名もそれでよかったのか不安になりまして、
ググってみてもヒットせず‥‥で、もしかしてこれは私の記憶違い??なんて。

でも、たまたま古い資料を見てたら、
「広告美術」という、株式会社オリコミが出してた広報誌(?)に、
「第15回秀作車内ポスター展」ということで、
昭和44年(1969年)の中吊り広告が載っていまして、
その「並列部門」にありました。
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A.森永乳業
AD.菊池孝生
D.FKU
C.菊池孝生/金子徹
P.立木義浩

「世の中かわった」と挙げられている文も今読むと興味深い。
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「見る月」から「歩く月」にかわった
コツコツ社員からモーレツ社員にかわった
ミニミニからスケスケにかわった
オバケから妖怪にかわった
サングラスからおしゃれグラスにかわった
グラマーからスリムにかわった
見合いからコンピュータ結婚にかわった
一等車からグリーン車にかわった
肥満児から健康児にかわった
100円亭主から500円亭主にかわった
スラックスからパンタロンにかわった
男上位から女上位にかわった


最初の「歩く月」ってどういう意味?って考えてしまったんですが、
1969年7月20日、アポロ11号が人類史上初の有人月面着陸に成功して、
月を歩いてる飛行士がいた(松任谷由実「未来は霧の中に」)んでしたね。

「スラックス」は今も使うけど「パンタロン」は死語ですよね。

‥‥ホント、世の中変わりました。
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タグ:昔のCM

浜岡原子力発電所バス見学会のこと [昔のこと]

浜岡原発が停止しましたね。
菅首相の会見は突然で、思いつきのような違和感があったんですが、
福島第一原発の事故が、あれだけ深刻な被害をもたらし、
まだまだ収束のメドもつかない状態であるのを見れば、
浜岡原発に限らず、全ての原発を順次停止させていく、
ドイツのような脱原発路線を選ぶのがいいのではないかと。

実は私、浜岡原子力発電所3号機の炉心真上に立ったことがあるんですよ。
1998年(平成10年)8月20日、
中部電力の浜岡原子力発電所バス見学会に参加したんです。
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中電が募集した浜岡原子力発電所バス見学会は、
平成10年の夏は、日帰りコースが12コース、宿泊コースが2コースの、
計680名でした。参加費は日帰りが1人1,500円、宿泊が3,000円。

これを知って、1,500円で夏の旅行と息子の自由研究ができる!と、
早速息子と2人で応募しました。(応募は2名まで)
倍率約20倍だったそうですが、見事当選。

当日は市役所前から8時に出発、バスの中でもビデオ等で説明がありました。

東名相良牧之原I.C.を降りて、御前崎で昼食をいただきました。
(参加費はほとんど昼食代じゃないかと思った、豪華な昼食でした)

浜岡原子力発電所に着いて、まず、浜岡原子力館を見学。
実物大原子炉模型があって、制御棒が上がっていく様子を見ました。
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 私、なんかこの時の説明で、「制御棒を上げると2秒で原子炉が止まる」
「なので安全」と聞いたんですよね。へーすごいなって感心してたんですが、
停止させた後に冷やすことが肝心だったわけですね。
‥‥生半可な知識はかえって危険ですね。

今回、浜岡原発を停止させるのにも、海水が混入したりするトラブルがあったとか、
「安全性に問題はない」そうですが、やっぱ、こんなことでイザって時に大丈夫なの?って、
不安に思っちゃいますよね。

浜岡原子力館には、中央制御盤の実物模型もありました。(後でホンモノも見学しましたが)
スカイラウンジからは発電所を一望できました。

隣に「新エネルギーホール」があり、太陽光発電や風力発電、燃料電池他、
いろいろな新エネルギーが展示紹介されていました。
こういうエコな発電がもっとできればいいなって思ったんです。
説明によれば、現時点(1998年)ではコスト面や、安定した供給に問題があって、
原子力を中心としたベストミックスな発電が理想とのことでした。
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(その時もらった、子供向けにベストミックスを説明するミニ絵本の一部)

そしていよいよ浜岡原子発電所へ。
原子力発電所の敷地内は、建物の中に入るまで撮影禁止でした。
タービン室や中央制御室を見て、
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そしていよいよ、靴下と靴を履き替えて、炉心真上へ。
後ろには燃料プールがありました。
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この頃の写真、古~いマックに入っているので、取り出すことができません。
当時、手に入れたIllustratorを使うのが楽しくて、こんな凝ったレイアウトをして
アルバムにしてました。(息子がまだカワイイなぁーー)

当時、中電は5号機の増設計画をしていて、バス見学会はその広報の一つだったんでしょうね。
その後2005年1月に5号機 運転開始。そして、1、2号機は廃炉になったとのこと。
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その時もらったパンフレット等
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阪神大震災の後でしたので
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「浜岡原子力発電所は想定されるいかなる地震に対しても十分な耐震安全性を持っています。」
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って書いてあるんですが、想定東海地震がマグニチュード8ですか。
自然は時に想定できないような力を持っているんですよね。
(安政東海地震のマグニチュード8.4や限界的な地震も考慮していると書かれていますが)
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東日本大震災の津波を思うと、やっぱりこの程度では心配‥‥

「日本の原子炉で、チェルノブイリ原発のような事故は起きません。」
とのことなんですが‥‥
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パンフレットは全て、バス見学会の1998年にもらったものです。

浜岡原子力館は無料で見学できます。(原子力発電所の見学はできません)
新エネルギーホールや浜岡周辺を紹介する展示館、
遊具のある芝生広場もなどもあるそうなので、
遊びがてら出かけてみてはいかがでしょう。
浜岡原子力館のサイト:http://www.chuden.co.jp/hamaoka-pr/index.html

完成間もない東名高速道路の絵はがき [昔のこと]

GW真っ只中ですね。いかがお過ごしですか?
今年のGWは、天気にも恵まれて、ニュースからは、
各地の高速道路の渋滞情報が流れてきますね。
テレビでは高速道路の渋滞状況を空から撮影した映像をよく見ます。

そこで、こんな画像をお見せしちゃいます。
東名高速道路の牧之原付近
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写真中央にあるのが牧之原SAで、右は下り、左が登り線。
道路上部は静岡、下方は浜松方面とのこと。

私は現在の牧之原あたりを知らないので、周囲の茶畑が今
どうなっているかはわかりませんが、まず気が付くのは、
高速道路上に車らしきものは2台しか見当たらないこと。
開通前の写真?と思ったのですが、
SAには何台か停まっているようなので、開通後だと思います。

こちらは上郷SAです。SAには車がチラホラ停まっていますが、
本線を走っている車らしいのは‥‥2台?
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こちらの絵はがきからスキャンしました。
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子供の頃、旅行のおみやげに絵はがきをリクエストしていた時があって、
観光地の絵はがきが結構たまっているのですが、その中の一組です。

タイトルもズバリ「東名高速道路」
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ちゃんと東名高速道路についての解説カードも付いてます。
それによると

世界に誇る高速道路
 ハイウエー時代の幕あけを告げた新しい動脈東名高速道路は、わたしたちが世界に誇る第一級の高速道路である。
 日本独特の美しい自然と調和した線形、道路と一体となった橋やトンネル、なめらかに車を運ぶ路面など、見事にレイアウトされた様々の構造美は、そのまま高速道路に与えられた機能につながっている。自動車の安全、快適な高速走行を確保するための最新の科学、たゆみなく進歩する道路技術がそこに結集されているからである。

と、手放しのほめ方というか、自慢をしています。
さらにケース裏側の説明には、

(略)快適、安全、高速と造形美をかね備えた夢の道路‥‥。人間と物をスピーディーに運ぶこの新しい道は、日本人が日本人の手で作ったものであり、豊かな日本の未来を築くのに、今後大きい役割を果たすことであろう。

とまであります。今読むと、今の中国人が中国について語る口調とそっくりだなぁ‥‥と。
東名高速道路が完成したのは、昭和44年(1969)5月26日 大阪万博の前年ですね。
この絵はがきが作られたのも、その頃だと思います。

解説にはさらに、特徴として、

最新の技術による土木と舗装
 東名高速では立派な道路を建設するために、土との技術的なたたかいが重ねられた。含水比の高い関東ロームを克服し、軟弱地盤地域ではさまざまな工法に因り、残留沈下を少なくするよう施工には特別の配慮がなされた。(以下略)
走りやすい道路
 東名高速道路は自動車が高速で、しかも安全快適に走れるよう特別に設計されている。単調になりがちな高速運転に適度な刺激を与え、ハンドル操作のしやすいなめらかなカーブ(クロソイド曲線)を全線にわたり取り入れた点などは、大きな特徴である。
美しい橋
 高速で走行するドライバーにとって橋の両側に高く突き出た橋桁などは、心理的な圧迫感があり好ましいものではない。そこで橋を橋と思わせない工夫をし、ドライバーには少しも抵抗を感じさせないようにしてある。
トンネルの照明
 トンネル内の照明は、排気ガスの中でも物が良く見えるオレンジ色のナトリウム灯を5mおきに配置してあり、一方、出入りの際の明るさの急激な変化をやわらげるための配慮もなされている。


とのこと。ふーーん、クロソイド曲線というのは初めて知ったけど、解説にはちゃんとクロソイド曲線についてさらに説明してあって(私が今まで読んでなかったということですね)
 半径が徐々に変わるカーブ。うずまき状の曲線で自動車の速度が一定のとき、一定の角速度でハンドルを切った時の自動車の走行軌跡はクロソイド曲線と一致する。名神は直線が43%、東名は僅かに5%。その他は円とクロソイド曲線。直線、円曲線につぐ『第三の線形』といわれる。簡単にいって自動車がもっとも走りやすいゆるやかなカーブ(緩和曲線)。

そうそう、高速道路の完成は名神高速の方が早かったんですよね。Wikipediaによると、
栗東IC-尼崎IC(71.1km)は、1963年7月16日に日本初の都市間高速道路として開通した区間である。1965年7月1日に小牧IC-西宮ICの開通により、全線開通となった。
ICやSA、PAについての説明や、高速運転についての注意なども解説カードにはありました。

浜名湖SAと浜名湖
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酒匂川(さかわがわ)の鉄橋
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小牧インターチェンジ
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この田舎のICはどこ?と、裏の説明を見たら、なんと小牧IC
いや、今も都会とは言いませんが、周囲はすっかり工場地帯ですし、
インターと接続する国道41号の上は名古屋高速道路になって、
すっかり変わっています。
‥‥まぁ、そりゃ‥‥40年経ったんですものね。

「嫁菓子」ってわかりますか? [昔のこと]

ちょっと前に岐阜市を車で走っていて見つけた看板
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ちょっとレトロな雰囲気が印象的です。
以前あった「本」という文字がかすかにわかるところも、
キッチュというか、独特な雰囲気をかもし出しています。
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閉店した本屋さんの跡にできた「おかしひろば」つまりお菓子屋さんです。

各務原市にも同じ「おかしひろば」の店がありました。
こちらは閉店したコンビニの店舗跡を利用しています。
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(しかし、閉店したコンビニの店舗が目立ちますね。塾や携帯電話販売店になったりと、
 その時々の流行モノがわかるというか‥‥でも一方では新しいコンビニもどんどん
 できていて、いいのかなぁーと、人事ながら心配してしまうんですが)

どちらも、店内には駄菓子や袋菓子などがダンボールに入ったままのような状態で
山と積まれていて、内装とかには全くお金をかけない、
問屋のような、ディスカウントの店です。

「嫁菓子」‥‥「嫁入り菓子」とも言いますが、
最近はこのあたりの人でもわからない人が出てきたんじゃないかと思うのですが‥‥

とにかく派手で有名だった名古屋の結婚式。
岐阜市周辺も名古屋の文化圏なので、一昔前の結婚式はそりゃ派手でした。

紅白の幕を張った嫁入り道具を積んだトラックが何台も連なって走ったり、
結婚式の引き出物は持って帰るのが大変なくらいでしたし‥‥

そして、嫁入り菓子。
花嫁さんが家で花嫁衣裳を着て出る時、見に来てくれた人に、お菓子を撒くんです。
(1987年の写真より)
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花嫁さんが乗る車は、花嫁さんの髪を壊さないよう、屋根が開くようになってます。
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仲人さんと一緒に、新郎の家に向います。
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菓子撒きのはじまりです(そのためにわざわざ足場まで組んであります)
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最後にはお菓子の入っていたダンボールまで撒いています。
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花嫁さんは一度新郎の家に入るんですが、ここでもお菓子が撒かれます。
それから集まった親族一同一緒に結婚式場へ行き、豪華な結婚式となるわけです。
(1989年の写真より)
屋根の上から菓子を撒いています。ちゃんと大きな袋持参で来てる人もありますね。
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「あそこの嫁入り菓子は‥‥」って話はすぐ広まるから、
お菓子代が10万、20万円ってのは当たり前だったようですよ。
もちろん、純粋に○○ちゃんの花嫁姿を見たいって人もいるんですが、
嫁菓子ゲット目的の人も多く集まってきますよね。
そんなオバタリアンたちの情報網はスゴかったですよ。
シーズンの大安の日曜日ともなると、袋状に縫った大きな前掛けを締めたオバさんたちが、
○時はあそこ、○時はあっちの家と、自転車で駆け回ってました。
噂では、ゲットした菓子をパチンコ屋に売るとか。
そんな菓子を、パチンコ屋といえど買うのかとか、売れたとしてもそんなに儲けには
ならないだろうとか思うんですが、元がタダで手に入れたものですからねぇ。

私もそんな菓子撒きの結婚式をしてもらったわけですが、
こんな見栄を張って、無駄だなぁと思ってました。

もう今は菓子撒きをするような嫁入りはないでしょうね。
花嫁も結婚式場でこしらえるようになりましたし、親族も直接式場へ行くことが多いです。

では嫁菓子はなくなったか?というと‥‥

菓子撒きをしていた頃も、本当にお菓子をもらって欲しいご近所の方は、
かえって遠慮して、あまりお菓子をゲットできていないことが多いので、
ご近所の方には最初に取り分けて袋につめておいた菓子を、
後でご挨拶と一緒に配ったりしていたんですが、
家から花嫁衣裳で出なくなると、菓子撒きはしなくなったんですが、
ご近所の方に配るお菓子の袋詰め=「嫁菓子」はまだやる方も多いですね。
まぁ、お引越しのご挨拶みたいなものですか?

電話帳にもそんな「嫁菓子」の広告があります。
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希望小売価格800~1,000円くらいのお菓子が袋詰めになって
「寿」のシールが貼ってあることが多いですね。
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築81年の家 [昔のこと]

前記事で、お年始に実家へ行き、お洒落にリフォームされた家のことを書きました。
色々なことを思い出したので、もう少し詳しく書きます。

この家が建ったのが、昭和3年(1928)だというのは、昭和54年(1979)の修理・改築の時に、
大屋根の梁に大きく「御大典記念 昭和三年」と書いてあるのを見つけたからです。
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(「記念」という漢字が「紀念」となってますが)
それまで祖母は、昭和になってすぐ建てたから、昭和2年に建った
(昭和元年は12月25日~12月31日の一週間だけなので) と言っていました。

「御大典」というのは、昭和3年11月に行われた、昭和天皇の即位式と大嘗祭のこと。
全国各地で盛大な記念行事が行われたとのこと。
しかし「国民が御大典の祝賀に酔ったのもつかの間、今度は4年の米国ウォール街 株式相場の大暴落に始まる世界恐慌が日本を襲った。当時、県下でも三大銀行のひとつと言われていた蘇原銀行が5年12月休業を発表し、休業は他の銀行にも及んだ。これは県下をおおった深刻な不況によるもので、養蚕に大きく依存してきた農村経済にも暗い影がさした。」
参考文献:『思い出のアルバム 各務原』昭和58年発行 郷土出版社

よく祖母が話してくれたのが、実家では、この家を建てるために、
銀行からお金を引き出していたので、銀行が倒産しても、打撃が少なくてすんだということでした。

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昔(私が小さかった頃、昭和30年代)の間取り
この地方の一般的な間取りです。母の実家も、祖母の実家も、同じ造りでした。
今の家と比べると大きいですが、これは、葬式や結婚式などのためと、
養蚕のためです。戦前の日本の一番の輸出産業が生糸でした。

蚕を育てる時期は、二階は全て、一階も、仏間と座敷、そして寝る場所以外は全て畳をあげ、
蚕の棚で占められていたそうです。ただ、父の代からは養蚕をやめたので、
私はそういった家の状態は知りません。

昭和54年(1979)、戦争や伊勢湾台風であちこち傷んでいた家の大修理・改築をしました。
戦争中は、川崎航空機工場から近いので、空襲で近くに砲弾が落ちたとか、
伊勢湾台風では大きな家がギシギシと揺れるのがとても怖かったとのこと。そしてその時の
雨漏りの跡は、天井やふすまにしっかり残っていました。
父は、建て替えた方が安くつくと言いながらも、これだけの家を壊すのはもったいないと、
床を全て取り外して、土台からやり直した大修理でした。
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昭和54年(1979)の大修理の時の写真

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改築前のお勝手の流し

その時に、トイレや風呂を家の中に造りましたが、それまでは、トイレも風呂も外にあり、
今考えると、寒い冬のトイレや風呂は、ずいぶん健康に悪かっただろうなぁと思います。

幼い私にとって、夜にトイレに行くのは怖かったですし、
風呂の脱衣所などは、屋根と戸があるとはいえ、雪の降るような夜でも
暖房も何もなく、外気温と同じです。そこで裸になって、熱い風呂に飛び込むのですから、
血圧が高い年寄りなどには危険なことだったでしょう。
当時、一番風呂は父が入ることになっていましたが、家長を敬ったということだけでなく、
一番風呂は、たいてい熱く、水を足してちょうどいい湯加減にしなくてはならないので、
年寄りや子どもには危険でもあったでしょう。
そして、我が家はそれまで風呂は薪で焚いていました。
(これは、その頃としても時代遅れではありましたが)
果樹の剪定をした薪がたくさんあるというのと、祖母という焚き手があったからです。
でも、毎日風呂に入る父を祖母は「ぜいたくだ」と言っていました。
(祖母は冬などは風呂に入るのは3・4日に一度くらいでした)
私がちょっと大きくなってから、よく祖母とけんかをしたのが、祖母が、風呂の手ぬぐいを
湯船で洗うこと。私は「汚い」と怒っていたのですが、祖母にとって、湯船の水は貴重であり、
流すのはもったいなかったのでしょう。今のようにお湯が出てくるわけではありませんからね。

私の小さい頃、二階には二組の若い夫婦が住んでいました。
しかし‥‥壁どころか、ふすま一枚の隔たりですからねぇ‥‥プライバシーも何もなかったでしょう。
トイレも風呂も、お勝手も共同‥‥二組とも子どもがありませんでした。
私は農作業で忙しい母にかわって、ずいぶんその夫婦にかわいがってもらったそうです。
その頃、公団住宅ができて、抽選会があったそうです。夫婦はその抽選会に私を連れて行って、
クジをひかせたら、ものすごい倍率の中、見事に当たったと、それも、最初に名前が呼ばれて、
びっくりしたと、後々までよく話してくれたものでした。(私は幼すぎて、全く記憶がないのですが)

こうやって書いてくると、昔の住宅事情に比べて、今はとても恵まれた贅沢な暮らしをしていると
思いますね。今、百年に一度の経済危機とか言ってますが、80年前の昭和大恐慌に比べれば、
まだまだと思って頑張らなくては。でも、昭和大恐慌への対策が、大陸へ進出、そして戦争という
道をたどったとのことですから、同じ轍を踏まないように、歴史にしっかり学びたいですね。
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